淺井 圖南 あさい となん
   

水鑑月而含輝
鑑月子應需
水 月を鑑る 而(しこう)して輝きを含む
月子(=新生児)を鑑て 応需す
11.6p×85.5p

宝永3年11月13日(1706年12月17日)生〜天明2年8月5日(1782年9月11日)歿
 尾張藩医浅井家二代。幼名冬至郎、藤五郎、のちに周北、頼母、諱ははじめ政道、のちに惟寅。図南、幹亭、篤敬斎と号す。父は東軒(通称周廸、諱正仲)、母は三谷氏。
 浅井家は、近江国浅井郡の出身、京都医家の名門で、傷寒論を重視する古方派に属する漢方医家。
 享保10年(1725)、父・東幹が尾張藩の藩医となって名古屋に居を移したが、図南は京都に留まって医業を行った。
 本草を松岡恕庵、文章を田中親長に学ぶ。また墨竹を描くに志し、ついに宮崎?圃、山科李蹊、御園中渠とともに「平安四竹」と称された。
 宝暦3年、図南48歳の時、父東軒の死により、八代藩主宗勝の招きに応じて、尾張藩医の職を継いだ。恕庵から学んだ本草学を尾張に導入して尾張学派の淵源の一人となった。簡約敦実を好み人に接するに城府を設けず、家塾の門人は1200人に達し、塾はのち尾張藩医学館となり、孫の貞庵・曾孫の柴山が館主となった。
 著書に『扁倉伝割解』『家脉講柄』『篤敬斎文稿』『詩集歎餘草』『発句集』などがある。

推奨サイト
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